Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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4

東海村4



*通し番号7:属性;女性・40代・その他
1.
<b>:
難病にならないようにしたいという気持ちは理解できるが、遺伝子を変えることには抵抗を感じる。遺伝子操作によって自然の摂理やバランスを崩すという可能性も考えられるからである。


2.
<b>:
健康であることは大切なことだと思うが、背が高いなどということが、生まれてくる子にとって幸せになる条件の一つであるかどうか、疑問である。カップルの希望に応じた子どもを作るという行為は、子どもを所有物化しかねないし、生まれてくる子どもに対して人間の尊厳を敬うことに反していると思う。


3.
<b>:
医学は病気を治療することによって進歩してきたし、障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある。遺伝子操作を全部否定するわけではないが安易に考えてはいけないと思う。


テーマ文1に対する記述は、先にも触れた「改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす、ヒトを含む生態系に対する予測不可能な効果」という問題を意識化し得ている。
論点は、「予測不可能な効果」である。予測不可能であるがゆえに、「自然の摂理やバランスを崩す」ことの具体的な内実について考えることはできない。おそらくここでは、個別的内容を度外視した上での「バランスを崩す」ことの基準についても考えられてはいない。しかし、この記述においては、先の事例においてテーマ文2に対する応答文までは無意識にとどまっていたレベルが意識化されている。本事例は、日常的な意識と言語のフレームにおいては、あるいは日常的な意識と言語のフレーム内にあるからこそ、明確な形で一貫した文脈を表現している。
さらに、テーマ文2に対する記述についてだが、「健康であることは~疑問である」という冒頭の記述は、次のように分析され得る。まず、「健康であること」が「幸せになる条件の一つ」として肯定され、それとの対立関係において、「背が高いなどということ」を「幸せになる条件」とすることが批判の対象となっているわけではない。言い換えれば、「背が高いなどということ」といった個別的な属性の序列化を肯定する遺伝子の改変が否定され、それとの対立関係において「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変が許容されているわけでなない。むしろ、この個人は、「健康であること」への希求や欲望は遺伝子レベルの改変を正当化しないというテーマに気づいていると考えられる。
「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変は、既述のように、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。言い換えれば、「健康であること」を目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定なのである。先の記述を行った個人は、まだこうした認識まで到達し得ていないのかもしれない。だが、少なくても先の記述においては、個々の属性が焦点であろうと、健康であることが焦点であろうと、一貫した文脈において懐疑されていることは確かである。
次に、第二文「カップルの希望に応じた~反していると思う」だが、ここで想起されるのは、先に「生存とテクノロジーを巡る覚書2」で分析したテーマ文2に対する応答文である。そこでは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じて存在するものではない」という主張が見られた。また、私たちは、この主張を、「子どもは、親またはカップルの希望に応じてこの世界へと存在させられるものではない」、あるいは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じた生存の様式を持つように予定されてこの世界へと存在させられてはならない」と言い換えて文脈を抽出した。ここでも、同様の一貫した文脈の生成が見られると言ってよい。
次に、テーマ文3に対する記述だが、ここで、「医学は病気を治療することによって進歩してきたし」という記述と後続する「障害があることを~考えてはいけないと思う」の文脈関係をどのように考えればよいのか。テーマ文3は、「治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ない」という記述で終わっていた。ここでは、医学が本来「治療することによって進歩してきた」にもかかわらず、遺伝子検査・診断に従う受精卵の選別・廃棄という行為は、治療あるいは進歩の安易な放棄であるという認識がなされているように見える。
だとすると、ここでは遺伝子治療すら可能ではない(「治療方法のない」)ために受精卵の廃棄が選択されたという事態がそもそも理解されてはいなかった、または忘却されていたのか。だが、ここで「理解していたのかどうか、または忘却されていたのかどうか」という二者択一をする意味はない。むしろ、ここでより根底的な選択として浮上するのは、たとえ治療不可能な場合であっても、「受精卵の選別・廃棄を選ぶのか、それともそれを拒否するのか」である。「遺伝子操作を全部否定するわけではない」という記述に見られるように、この個人は他者の選択を尊重している。だが、この個人によっては「受精卵の選別・廃棄を拒否する」という後者が選択されていると考えられる。
「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」には、先に分析した事例の「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」と類似した論理が見られる。ここまでの分析の結果、私たちは、先の「覚書10」の事例以上に、本事例は一貫した文脈の生成が明確に見られると考える。


*通し番号8:属性;女性・50代・ケアマネジャー
1.
<b>:
どんなことでも最初の人は勇気が要るし、危険も伴う。病気がなくなるのはいいことだし、こういった過渡期を越えれば、犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら、それもあり得る。


2.
<b>:
かなり極論だと思う。自分の子どもは、例えば男児なら妻が夫の子供時代を理解する手がかりになり、女児なら夫は妻をもっと分かるようになり、お互いをいとおしく思い合えるようになる。そして夫婦として完成していくといった幸福感、家庭という固い絆がきずかれ、それが広がって地域へ国へ世界へとつながるのではないか。カップルが工作するのでは決してないと思う。


3.
<b>:
…と思う。


テーマ文1に対する記述は、一見して不思議なほどに遺伝子の改変に対して肯定的である。というよりむしろ、この記述は、単に遺伝子の改変への肯定的構えではなく、人間の生活世界全般の技術的改変に対する肯定的構えを表現しているとも言える。それほどまでに、ここには何らかの制約条件に対する視点が欠如している。
もちろん、ここで私たちは、既述の「社会的強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」のイメージや、「すべては超微細なレベルで決定されている」という<言表>の際限の無い反復で表現される世界イメージを想起できる。このイメージの領域は、現在までのところ、あらゆる記述に対して最も根底的なフレームとして仮定されている。
上記の<言表>が浸透する領域が、遺伝子の改変という技術領域に限定される必然性はない。この意味で、先の記述はこうした<言表>の効果として、むしろ典型的な事例である。荒唐無稽にも見えるが、先の記述が肯定しているのは、人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の「世界改変効果」に及ぶと思われるからである。ここでは、ある種の「世界イメージ」が焦点となる。とはいえ、今後私たちの生活世界において偏在的なものとなる超微細な生体工学の領域こそが、こういった<言表>にとって親和的な領域であろう。いずれにしても、既述の<我々自身の無意識>の作動が、この記述においても想定できる。
さて、「どんなこと(anything)でも」という冒頭の言葉には、「何でも構わない(anything goes)」といった構えすら見て取れる。ここでは、「どんな(any)」リスクが発生したとしても、それらは全て「過渡期」の現象であると見なされ得る。すなわち、そういった「過渡期を越えれば」、ほとんど全ての問題は解消すると想定されているように見える。だが、もちろん、ここでは問題が解消すると断言されているわけではない。あくまでも、そういったリスクや問題が全て解消された「世界がくるのなら、それもあり得る」という仮想世界が述べられているに過ぎない。この仮想世界は、あらゆる問題が「過渡期」を越えて解消へと向かう直線的な時間観念を内包しているように見える。だが、より根底的なレベルには、あらゆる「過渡期」の生成と消滅が恒常的に反復される世界のイメージがある。それはむしろ、無時間的な世界であろう。私たちは、ここでも、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界(「といった世界」)の可能性(「それもあり得る」)を見出すことができる。
ところで、先の記述で述べられていたのは、もし「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら」、そのような世界を到来させる技術的介入が「許容される(あり得る)」ということ、つまり「そうした世界もアリ」ということである。言い換えれば、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変える」ことは、少なくてもこの段階では何の懐疑にも晒されてはいない。
だが、もしそうなら、以上の記述と次に見るテーマ文2に対する記述との関係が新たな問題を提起することになる。唐突にこうした記述に出会うと、これまでの記述を包括する文脈の分析が、一挙に困難になったと思えないだろうか。テーマ文1と2に対するこの応答記述の違いを、一体どのように考えればよいのか。どちらのテーマ文も、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになる」という点に関して違いはなかったはずである。にもかかわらず、先の記述では「それもあり得る」とされ、ここでは「かなり極論だと思う」とされている。これら二つの応答記述の間には、実は見かけほどの違いはないのか。これら記述を包括する文脈の一貫性を想定することは果たして可能なのか。
ここで、既述の「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という論点が想起される。これは仮説だが、一般に、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は、「個別的な属性の序列化(同時に生存そのものの序列化)」に対応するとものとして受け取られるだろう。従って、言うまでもないが、先の個人による記述は、「健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識へと向かうものではなかった。それでは、これらの記述が位置する文脈の生成過程とは、一体どのようなものなのか。
先の個人のテーマ文2に対する記述は、「かなり極論だと思う」で始まっていた。この記述と、テーマ文1に対する「それもあり得る」という記述との整合性が問題とされた。すなわち、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてしまう」という点においては本質的に同一の事態に応答する二つの記述の整合性への問いである。ここで先の仮説を活用するなら、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化(同時に生存そのものの序列化)」に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が一見不整合なものとして分岐するということになる。
言い換えれば、この個人が記述しているのは、背を高くしたりするための介入(テーマ文2に対して)は「かなり極端だと思う」が、健康を願う故の介入(テーマ文1に対して)なら「それもあり得る」ということである。この二つの記述の分岐は、応答する個人の主観的な意識の分岐に対応している。逆に言えば、この個人にとっての無意識の文脈の生成過程を反映するものではない。この事例に限らないが、文脈の生成過程は、より根底的なレベルで掘り起こされなければならない。
まず、上記の一般的仮説は、次のように修正される。すなわち、括弧内の表現である「同時に生存そのものの序列化」は削除されなければならない。例えば、もはや言うまでもないであろうが、先の個人にとって、「健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識は存在していない。すなわち、この「同時に生存そのものの序列化」という括弧内の記述は、応答する個人の意識の外部にある。従って、この個人にとって、「個別的な属性の序列化」という価値観に基づいた「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、それが「同時に生存そのものの序列化をも意味する」という認識はない。
このことは、先の個人に限らないだろう。従って、記述の分岐を説明する先の一般的仮説は、次のように書き換えることができる。
1. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は、「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識される傾向がある。
2. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文2は、健康であることへの希求や欲望とは異なる「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識される傾向がある。
3. 以上二つの応答意識の違いが個人において存在する場合、それぞれのテーマ文に対する二つの記述が、それぞれ肯定的・否定的という形で一見不整合なものとして分岐する傾向がある。
この個人による「かなり極論だと思う」という記述に遭遇した段階においては、テーマ文1に対する記述とテーマ文2に対する記述の両者を包括する文脈の一貫性を想定することは困難であった。だが、上記の仮説によって、主観的な意識を超えた根底的なレベルにおいて、一貫した文脈の生成を想定することができる。その場合、「かなり極論だと思う」に引き続く記述は、新たな光を当てられるのではないか。
まず、「カップルが工作するのでは決してないと思う」という結論部分は、先に分析した事例における「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだ」という論理と表層的には類似している。だが、「この記述でいったい何が言われているのか」ということが問題なのではない。むしろここで注目されるのは、この記述の「制約条件を欠いた流れるようなスタイル」である。それは、形式としては「~になり~になり~になる」といったスタイルであり、また「それが広がって地域へ国へ世界へとつながる」といった記述に見られる<自ずから成る事象の流れ>とでもいえる表現である。私たちは、ここにおいても、先の分析における「あらゆる過渡期の生成と消滅が恒常的に反復される(中略)無時間的な世界」を見て取ることができる。
一見ここでは、技術的介入がないからこそ、こうした<自ずから成る事象の流れ>があり得ると述べられているように見える。だが、実はこの記述は、「人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の世界改変効果の肯定」という先の分析結果と同じコインの裏表の関係にある。無意識のレベルにおいては、テーマ文1に対する応答記述とテーマ文2に対する応答記述の間には、一貫した文脈が生成している。あらゆる技術的介入は、あくまでも一つのエピソードとしての「過渡期」に過ぎない。言わば、「素晴らしい新世界」という結論があらかじめ先取りされた世界であり、その先取りにおいて「何でも構わない(anything goes)」といった構えが維持されている。やはりここでも、「すべては超微細なレベルで決定されている」。
この「新世界」は、決して直線的な時間の末端としての「終わり=目的」ではない。それはむしろ、無時間的な無常と恒常の共存において、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界が自ずから一つに「つながる」世界(あるいは常にすでに一つにつながっている世界)であり、それ故、「カップルが工作するのでは決してない」世界である。それは、この個人にとってごく自然な「日常的世界」なのである。
 上記の文脈の一貫性が、意外にも、次のテーマ文3に対する応答記述においてあらわになる。とはいえ、それは記述とも言えない記述であり、ただ「…と思う」のみである。私たちは、この記述の断片、というよりむしろ「記述の空白」をどのように読めばよいのか。 
テーマ文3は、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という冒頭の記述によって提示されていた。先に、私たちは、この冒頭の記述が、「無時間性に時間性を導入することになる」と仮定し、さらに「無意識とは無時間性のもとへの滞留であり、この無時間性から時間性への移行が<我々自身の無意識>の意識化(対象化)過程の端緒となる」と述べた。だが、こうした見方は、「…と思う」という「記述の空白」には通用しないのか。
この記述は、単純に解釈すれば、「回答あるいは判断不能のケースであり、先の個人の主観的意識にとって、テーマ文1,2,3相互の(同時にそれぞれに対する応答記述相互の)整合性あるいは矛盾の吟味ができないための思考停止状態であると推測できる。つまり、これらの整合性の吟味は、無意識に否認されている可能性がある。無意識的な葛藤タイプとして捉えることができる」となるだろう。確かに、ここには、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界が自ずから一つに「つながる」世界(常にすでに一つにつながっている世界)の不可能性に直面することへの無意識的な否認が存在するのかもしれない。
それは、あの<排除>のメカニズムである。我々にとってごく自然な「日常的世界」は、<我々自身の無意識>を穿つ亀裂がこのメカニズムによって<予防>されることで成立するのである。


*通し番号9:属性;無記
1.
<b>:
子どもが健やかに成長することはすべての親の望みである。しかし、成長とともに難病などになってしまうと分かっているからといってその子の尊厳自体がなくなるものではない。生きることのすばらしさが別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない。

2.
<b>:
確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思えるが、しかし、真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受けとめ、生きることのすばらしさを発見するところにあると思う。人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにあるのではないかと思う。


3.
<b>:


テーマ文1に対する記述のキーワードとして、「その子の尊厳自体」と「別の世界観」を挙げることができる。
この記述は、これまでの事例における「子どもは、親の希望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である」、「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」、「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」といった記述と類似している。また、遺伝子レベルへの技術的介入に対して明らかに懐疑的である。しかし、先の記述には、これらの記述では明確に表現されていなかった別のテーマが見られる。
「別の世界観」という言葉は、「一個の別人格」という言葉と共鳴している。だが、それだけではなく、「別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない」という表現においては、親と子が共有し得る「別の世界観」が、ある「世界観=X」と対比されている。この「別の世界観」は、子どもという他者の「尊厳自体」が、そして子どもとともに「生きることのすばらしさ」が、「親と子に与えてくれるかもしれない」ものである。言い換えれば、ここでテーマ化されているのは、子どもという他者の他者性それ自体ではなく、むしろ以下のことである。
(1)子どもの他者性がもたらす「別の世界観」を親が子どもと共有する可能性
(2)「別の世界観」が「世界観=X」に対して持つ他者性
 この「世界観=X」は、「遺伝子疾患という属性を持った人は、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という言表が表現する世界像である。そこには、「別の世界観」が存在する余地がない。言い換えれば、「成長とともに難病などになってしまうと分かっている」にもかかわらず技術的介入が為されなかった子どもという他者が存在する余地がない。だからこそ、「別の世界観」は、「世界観=X」が表現する世界に対する「別の世界」を表現している。言い換えれば、「世界観=X」とは、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態」と「除去されていない状態」という二分法が前提され、こうした属性の除去あるいは予防という思想と実践が偏在する世界のイメージである。
「別の世界観」は、この「世界観=X」と対比されている。そして、子どもという他者の「尊厳自体」は、「世界観=X」による生存の序列化に抵抗し、そこへと回収され得ないものとしてイメージされている。
 次に、テーマ文2に対する記述だが、まず、「真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見するところにある」という記述には、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。ここでも、子どもとともに生きることのすばらしさが、親と子に与えてくれるかもしれない「別の世界観」を子どもと共有する可能性が記述されている。「どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見する」とは、子どもという他者の到来を自らが受け止めることによって、子どもの他者性がもたらす別の世界観を親が子どもと共有することである。
また、「人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにある」の「人が生きること」は、「人が生きることの尊厳」と言い換えることができる。ここにも、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。というよりむしろ、自らにとっての子どもという他者の「尊厳自体」を想定することが、「人が生きることの尊厳」あるいは「真の尊厳」を発見させる。さらに、「技術的・科学的な部分が及ばない」は、「世界観=Xによる生存の序列化へと回収され得ない」と言い換えることができる。すなわち、「人が生きること」は、あるいは生存それ自体は、ハイテクノロジーによる生命の選別という思想と実践が偏在する世界にあっても、本来的に序列化され得ないものとされている。先の記述の冒頭で、「確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思える」に続く「が、しかし」という表現が示していることは、この個人が、「健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識を持っているということであろう。子どもという他者性がもたらす「別の世界観」は、この認識を通過する過程で記述されたといえるだろう。
次に、テーマ文3に対する記述の空白であるが、私たちはこれをどう考えればよいのか。テーマ文3は、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話として、遺伝子検査や診断によって、これから生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合産みたいと思った子どもだけを産むことができるようになる。治療方法のない難病などの場合、個人やカップルの選択により受精卵の廃棄・選別もやむを得ない」というものであった。ここで、直前の事例におけるテーマ文3に対する「…と思う」という「記述の空白」が想起される。だが、これまでの分析から判断するなら、直前の事例と本事例との間には、文脈生成における一貫した差異があるのではないか。言い換えれば、本事例に対しては、「無意識の否認」という分析は妥当しない。ここでは、無意識の否認を支える<排除>のメカニズムが機能していない。
 それでは、この記述の空白は、これまで見た文脈生成過程のうちにどのような位置を占めるのか。私たちは、ここにおいても、たとえそれが「世界観=X」と重なるかもしれなくとも、自分とは異なる他者の抱く「別の世界観」への顧慮があると考える。この場合、先の(1)と(2)は、次のように変容する。
(1)他者の他者性がもたらす共有し得ない「別の世界観」への顧慮
(2)「別の世界観」が、この私の世界観に対して持つ他者性
この個人にとって、「カップル」という他者の他者性が、その前では沈黙せざるを得ない記述の壁となっているのだろうか。私たちもまた、いったんはこの問いの前で、沈黙のうちへと投げ返されることになる。

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